読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マイ・ルーム 4

PROLOGUE

結核の疑いをかけられた私は一年間の投薬生活を続けてた。
中でも「リトマイシン」という赤い錠剤は激しかった。

就職が決まった最後の夏、私は病人だった。

'03年の2月、春から始まる新社会人生活
で生まれて初めての一人暮らしをすること
が決まっていた。

私が肺気胸の為に手術台で横たわっている
間に、荷物達は新居へ運ばれた。

 

マイ・ルーム 4

 

気胸の手術は極簡単である。
終わって一週間程度ですぐ退院できる。
只、私の場合は薬付けの体であったのと
ちょうど生活の変わり目というのが重なり
退院直後の精神状態は不安定極まっていた。

新居が気になっていたので病院から
新居へ直行する。入った瞬間に入り口の
床が少しうき上がっているのに過剰に反応。
その瞬間で心は真っ暗になってしまう。

キッチンに得体の知れない棚が置いてある。
しかも中には皿がまんべんなく入っていた。
押し入れをあければ、意味不明の照明器具
の山。

どうやらそのマンションは物置きも兼ねている
様だった。それもそのはずで男の一人で
2DK、しかもリビングと一部屋は6畳。もう一つ
は8畳。京浜急行の駅前で5万円。あり得ない話。

父が倉庫として使おうと購入していた
マンションだった。大家は父親。
まともに考えれば決して悪い話ではない。
しかしそれを受け入れられる状況ではなかった。

高く積み上げられた百科事典。天体望遠鏡
掛け軸。何の脈略もないものが溢れていた。
そして私はノイローゼになる。

部屋こそが思考回路の縮図である私にとって
あの状況はまさに混沌の宇宙だった。

社会人になりたての不安にも増して
部屋が心を不安にした。だが、帰りたくない
と思ったことは無かった。
徐々に薬の影響が薄れていく中でそこを
自分の部屋として作り替えようという
意欲が湧いてきた。

完全な部屋を。

やはり北向きの部屋を選ぶ。6畳の方だ。
そこの壁面を本棚で埋める。本も溢れていたが
その中で読むであろうものを厳選。飾った。
天井まで本を積めるようにした。
「大学教授のようだ」とは友人の感想。

そして机、そこにも棚をはり巡らした。
雑多な荷物の中にあった宝物。
オンキョウのスピーカーと、ウ゛ィクターの
アンプ。再びCD、アナログを運び込む。
机に座りながらDJプレイを楽しめる配置。
そして、本棚と反対の壁は洋服ダンス
を置いた。

半分を創作の場。残りを飾る場とした。
照明器具も使えるものもあった。
3ヶ月かかり、徐々に空間が出来上がってきた。

そういった中、色々雑誌も見た。
部屋大改装。今は余り見ないが、当時はそんな
タイトルが目立っていた。参考になったものは
一つもない。

形や雰囲気を決めつけ過ぎると嫌になった瞬間
窒息する。今迄の経験から悟ったことだ。
自分を知った上で、自分がそこでどういるか。
また、シンプルすぎてもダメ。そんな結論を下に
私は新居を改造していった。

会社へ通うサラリーマン生活と、帰った後の
偏執狂的潔癖男。ジキルとハイド氏のように
なりたかった。その差は日に日にかけ離れていった。
友人達とも疎遠になってき、心の闇は増す一方。
会社へ出発する前に聴いていたニッポン放送
「おはよう中年探偵団」の時間が唯一のまともで
いられる時間だった。

香辛料を販売する会社につとめた私は
スパイス・フューチャリング・カップ・ラーメン
という計画をもっていた。そしてそのセットを
創作の現場へ届ける。これが夢だった。

創作活動に没頭する人たちは食事に
煩わされたくない。手塚・治虫はコンビニおにぎり
博士だった。

ただ、カップ・ラーメンの方がカッコいいと思った。
パッケージ的に。ただ、一方的な味付けでいいのと
疑問を投げかけたかった。

ある人が言った。
「食事する時が唯一リラック・スタイムですから」
私の提案するのは
「ノー・リラックス ジャスト・スパイス」
切り替えの休息など必要ない。
刺激的なスパイスで食事中もインスパイア
湧きっぱなしの方がいいではないか。

アトリエや事務所にカップ・ラーメンと
スパイスが積み上げられる風景。
それらが創作用の道具と同じように並ぶ。
それが理想だった。
カップ・ラーメンにアーティスト達が
スパイスを大量に振りかけている風景
を想像した。

三谷コウキの作品「みんなの家」で
唐沢トシアキが何かの料理に塩かコショウを
大量に振りかけているシーンがあった。
ラーメン屋でも莫迦のようにかけている男性
をよく見る。実際に花月ラーメン・チェーン
では「それくらいかけろ」と謳う。
クラフト・マン・シップ。大好きだ。

私は建築学科の大学院に進んだ友人を通じて
その研究室で「スパイス・パーティー」
を企画したこともあった。会社のカバン
一杯にスパイスを詰め込み大学へ運んだものだ。

また、食品の展示会では日清のブースに通い
話をした。やはり、カップ・ラーメンは日清しかない。
もっと言えばカップ・ヌードルしかない。
おいしいものは他にもあるがあの強烈インパク
は圧倒的である。「それとうちの青缶が組めば」
「日本の食文化の究極だ」と信じていた。

運良く、日清の人が面白がってくれて「麺職人」
という商品とのタイアップとなったが、その
新商品が余りかっこ良くなかったので私は
面白くなかった。カップ・ヌードルとの距離
は遠すぎた。

話がかなりそれたが、そんな仕事をしていた
結果私の部屋はまさにその理想郷となっていた。
積み上げられたカップ・ヌードルとスパイスの山。
アトリエまがいの部屋。

お湯を湧かすためだけにガス・コンロとやかんだけ買った。
生活臭のないキッチンだった。栄養面か精神的なものか
当時鼻血がよく出ていた。気付くと鼻血が出ていた。

仕事中は別としてプライベートでほとんど人と接しない
生活であったため奇行が目立ちはじめる。
徐々に崩壊は始まっていた。

夜中、すぐ下で交通事故があった。
なぜか急に恐怖感に襲われる。
翌日、両親が訪ねてきた時白いランニングと
白いブリーフで体育座りをしていた私を見て
絶句していた。

ゴミを外にだすタイミングも見失い
家はゴミ袋だらけ。私のファッションの師
リトル・ベアー氏からも「汚いよ」と言われた。

あの部屋から出たかった。
そして実家に帰った。部屋の片づけもなにもせず。
脱出と言う言葉がピッタリだ。
あそこにいると頭がおかしくなる、と思った。
ボロボロだった。結局、父親もそこを手放す
ことになり売った。

オープン・ルームとなる直前、片づけは
引っ越しやと父親にまかしてしまった。
どうしようもない息子となった。
どうしようもない一人暮らし。
どうしようもない社会人生活。
この間に私は何度会社の車で事故を起こしただろう。
申し訳が立つはずがない。深く反省している。
1年弱で挫折した。

実家では元、私の部屋を妹が使っていた。
今度は南の小さい部屋を使うことになる。
敗残兵の気持ちだった。
すみませんと家に置いてもらっている心情。

だが家族のホスピタリティーにふれ
まともに戻っていった。
病み上がりだった私には療養が必要だったのだ。
「さあ、この小さな部屋でどう過ごそうか」

つづく